ようこそ hirot'sBlog へ

2004/11/25
本BLOGの公開を
開始しました。
映画は、今世紀に入って
ほとんど劇場では
見ていません。
主にDVD、CS、BS放送
による観賞です。
表題後ろにあるのが評価で、
前は客観点(出来の良さ)、
後は主観点(好き嫌い度)。
A-Eにするつもりですが
客観・主観とも
Cが及第点として、
Aが最高評価
Eが最低評価
とお読みください。
よろしくお願いします。

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プロフィール

hiro


2017年10月

2017年10月31日

軍旗の下に

1942年 イギリス IN WHICH WE SERVE
ノエル・カワード監督&製作&脚本&音楽&主演 デヴィッド・リーン監督 ロナルド・ニーム撮影 ジョン・ミルズ バーナード・マイルズ セリア・ジョンソン アン・スティーヴンス ダニエル・マッセイ ジョイス・ケアリー ドーラ・グレゴリー ケイ・ウォルシュ デレク・エルフィンストーン

第2次大戦中の1941年5月。地中海・クレタ島撤退の作戦中、イギリス艦船トリンがドイツ軍爆撃機によって撃沈されるが…。

・最初は艦船の砲撃と敵機の対戦が描かれて、それは退屈だったが、艦船トリンが沈没して漂流している間の回想を中心に描かれる。そこからは人間ドラマになっていて興味深い内容になっている。
・本作はデイヴィッド・リーンの共同監督だが、主監督はノエル・カワードの方であることは明らかだ。彼は監督の他、主演、製作、脚本、音楽も手掛けている。
・ノエル・カワードの名前は知っていたが、改めて考えると何故彼の名を知っているか分からないことに気がついた。印象としては、俳優より劇作家という気がしていた。しかしwikiで確認しても大きくヒットするものは見当たらなかったのが不思議。(最も顕著な成果は本作「軍旗の下に」らしく、アカデミー特別賞を受けている) 交友関係もチャーチルからチャップリン、ディートリッヒ、そしてイアン・フレミングと広く、マイケル・レッドグレーブとは性的関係にあったという。
・本作は一見して明らかに戦意高揚映画だが、その実態として、戦時背後の日常を描くことにより、むしろ背戦傾向が感じられる点で好感が持てるのかもしれない。空襲の最中、防空壕への退避を拒否して日常を続ける三人、それでも妊婦だけは比較的安全な階段の下に移動したことで、妊婦だけが助かるという悲劇的エピソードが特に印象的。家族の死を聞かされて、書きかけの家族への手紙を海に捨てるシーンの哀しさ。
・最後のシーンでの解散したトリンの乗船員たちと艦長との別れの握手。そのうち数人は手の怪我、両手の怪我でまともな握手も出来ないのだが。この延々たるシーンが退屈ではなく、作品への余韻となっている。(最近の映画のクレジットの長さに比べれば短いものだ)



hirot15 at 23:56|PermalinkComments(0) 洋画 | 戦争

2017年10月30日

メッセージ

2016年 アメリカ ARRIVAL
ドゥニ・ヴィルヌーブ監督 テッド・チャン原作 エリック・ハイセラー脚本 ブラッドフォード・ヤング撮影 ヨハン・ヨハンソン音楽 エイミー・アダムス ジェレミー・レナー フォレスト・ウィテカー マイケル・スタールバーグ マーク・オブライエン ツィ・マー

ある日、突如として地球上に降り立った巨大な球体型宇宙船。言語学者のルイーズは、謎の知的生命体との意思疎通をはかる役目を担うこととなり、“彼ら”が人類に何を伝えようとしているのかを探っていくのだが……。

・文句無く面白かったです、と言いながら文句を書いてしまうのですが。
・一つは、この解決法ですが、ずっと昔に藤子不二雄が(もっと単純な形でですが)描いている。
・もう一つは、時間の対処は「スローターハウス5」の方がずっと巧い。
・そして最後は作品に対してではないけれど、どうして、人間はこれだけ分かっていながら、それが出来ないのか。「地球が静止する日」と同じですよね。あんなに昔に、答えを出しているのに。作品名は忘れてしまったのだけど、常に僕の心に残っているSFの答え。「どうしたら平和になれるだろう?」と異星人に効いたら、「そんなのもうわかっているじゃないか。自分の嫌がることを他人にしなければいいのさ」
・結局、人間って総体的に大馬鹿なんですよね。少数の善人は多数の馬鹿に駆逐されてしまう。(この選挙の結果がそれを示している)




hirot15 at 23:58|PermalinkComments(0) 洋画 | SF

2017年10月29日

静かなる叫び

2009年 カナダ POLYTECHNIQUE
ドゥニ・ヴィルヌーブ監督&脚本 ジャック・ダビッド脚本 ピエール・ギル撮影 ブノワ・シャレスト音楽 マキシム・ゴーデット セバスティアン・ユベルドー カリーヌ・バナッス エブリーヌ・ブロシュ ピエール=イブ・カルディナル

1989年12月6日、モントリオール理工科大学に通う女子学生バレリーと友人の男子学生ジャン=フランソワは、いつも通りの1日を送っていた。しかし 突然、1人の男子学生がライフル銃を携えて構内に乱入し、女子学生だけを狙って次々と発砲を開始。犯人は14人もの女子学生を殺害し、自らも命を断つ。バレリーは重傷を負ったものの何とか生還し、ジャン=フランソワは負傷した女子学生を救う。それぞれ心に深い傷を負った2人は、その後も続く非日常の中で苦悩にさいなまれるが……。

・ドゥニ・ビルヌーブはどんな映画を作るか想像ができない。本作は実際の事件の中に登場人物を送り込んで描く(多分、犯人は架空の人物に置き換えられているだろうが)。それと、奇しくも見た時期が先日起こったラスベガスの乱射事件の直後というのもショックだった。こちらは無差別というより主に女性に対する憎悪だが。
・映画は冒頭でいきなりのショッキングな出だしで始まるが、その後は事件前の各登場人物の日常描写が描かれていく(犯人だけは日常描写ではないが)。そして犯人が犯行を開始してからの描写がちょっと複雑。単にそれぞれの時制が繰返されるだけでなく、事件後の描写も挟まれてしまう為、かなり戸惑う。
・正直、犯人の狂気が主に描かれる本作は、ほとんどラスベガスの乱射事件を見ているようなもので(こちらは窓から撃つのではなく、学校内を歩き回るのだから更に怖い)、ある意味悪趣味で、そういう意味ではお勧め出来ない。
・ただし、勿論、ドゥニ・ビルヌーブはそれだけでは終らせていない。



hirot15 at 23:46|PermalinkComments(0) 洋画 

松田が大嫌い・ダルビッシュの凋落

・僕はホークスの松田が大嫌いです。彼のスタンドプレーが鼻持ちなりません。最初に嫌悪感を感じたのは、空振りしたときの、それでおわらぬオットット、という人の目を引き延ばすスタンドプレー。これは、日ハムで大嫌いな大野もやっていて、どっちが先か知りませんが(多分、松田でしょう)、どちらも同じに不快でした。更に、松田はホームランを打った後、ホームに帰ってからスタンドに吼えるポーズ(明白なスタンドプレー、普通はスタンドの声援に応える挨拶程度)、そしてファインプレーをした時(それがファインプレーであることは認めますが)、自らのガッツポーズである内向きに発散するのではなく、外向きに胸を張り(多分吼えている)ポーズ、これは自分に対するものでなく、周りに対するポーズです。まさにこういうのをスタンドプレーと言う。ゾッとします。
・それでは、日ハムのレアードの寿司ポーズはどうか。これは、スタンドプレーではなく、観客とのコミュニケーションであると解釈する僕は贔屓の引き倒しでしょうか。彼は三塁をまわってとる寿司ポーズは少なくとも松田のような自分の誇示ではなく、観客に対する「ありがとう」(観客はレアードの寿司好きを知っている)というコミュニケーションと思います。レアードに続く「おむすび」くんはサードコーチ白井(今季限りは残念)の後押し(演出)もありますが。
・話はかわりますが、サッカー好きには申し訳ないけど、僕はサッカーが嫌いです。その理由は三つあります。一つは、僕がサッカーのようなだらだらと続くゲームよりも、アメリカンスタイルの区切りのあるスポーツの方が見ていて考える余地があって好き、ということ。(野球・アメフトのように攻撃と守備がはっきり区切られるスポーツ、バレーボールのように一つ一つのプレーが区切られるスポーツ、テニスも同様、バスケはスピードにより短く区切れる) 学生時代には僕もサッカーをしていて、それはつまらなくはなかった。しかし、観る側では堪え難くつまらない。(それなのに何故、マラソンはつまらなくないのだろう?)
・もう一つ、嫌いな理由は、サッカー熱が高まる直前あたり、僕が世界の映画をみるようになって(東京映画祭や山形映画祭)、サッカーに熱中する民族が全て悲惨であること。確かに、サッカーは野球ほどの装備はいらない。しかし、野球だって、棒と丸めたボールもどきでプレーをしていたのです。それにプラスして、日本がサッカー熱が高まるとともにどんどん悲惨な状態に落ち込んで行ったこと。日本だけでなくアメリカも同様。サッカーが強くなると反比例して国力は落ちて行くように思えてなりませんでした。サッカーは疫病神であるという思い込みは勿論、僕の妄想でしょうが、思ってしまったものは仕方ない。好きにはなれない。
・三つ目が、今回の主題、松田嫌いに直結します。サッカーはほとんどみなかったけど、それでも見えて来るカズ・ダンスに嫌悪したのです。これこそ、スタンドプレーの極地。カズだけでなく、(今は知らないけど)当時はそうしたサッカーのスタンドプレーが目立って仕方なかった(ゴンとか)。
・実は、現在も現役を続けているカズ自身に、今は嫌悪感は無く、むしろある種の尊敬を感じています。(カズの子供達が「ドカベン」に夢中だったという逸話は笑えた) もはや、カズ・ダンスは話題にもならず、しかしカズがゴールするとその年齢に対する敬意、それはもはやある種イチローと同じ境地でしょうが、それはスポーツを越えて感銘を受けています。
・でも、この日本シリーズを見ながら、相変わらず、松田には嫌悪以外は感じないのです(WBCの時は仕方なく応援しましたが)

・ついでですが、ダルビッシュ、彼の低迷は明白に自らのお山の大将の結果です。彼が大リーグに行ってからのあらゆる上から目線。彼にはもはや頼れる存在がいないのです。日ハム時代には、上に佐藤ピッチングコーチ、そして捕手に鶴岡がいて、最大限ダルビッシュをフォローし、そして自らの手柄もダルビッシュに譲っていたのです。(他の投手は捕手に感謝していましたが(形だけかもしれませんが)、ダルビッシュだけは失投を鶴岡のせいにして、それを鶴岡は笑って受け流していたのです)
・大リーグに移籍してのダルビッシュの誇る肉体改造は、故障を生んだだけでなく、明らかに日本時代の無敵のキレを無くしている。田中や前田や、他の投手も含めて、段々と簡単にホームランを打たれるようになったのは、慣れられたのではなく(それもあるでしょうが)、投手が日本時代のパフォーマンスを失っている故です。田中は土壇場で何度も精神力で盛り返していますが(それが切れている時は悲惨)、ダルビッシュにはその精神力が無いのです。ダルビッシュは、自らを反省しない限り、その程度の(肝心に頼りにならない)存在で終ってしまうでしょう。



hirot15 at 20:49|PermalinkComments(0) 野球 

2017年10月28日

四チーム冠をこそ生むべきだ

・クライマックスを経ての日本シリーズに対する雑音がうるさくて仕方ない。
・10ゲーム以上離されてのクライマックスに1ゲームのハンデは少な過ぎる、って、馬鹿じゃないの。上位にハンデを与えるというのは、単なる強いもの勝ちじゃない。普通、ハンデは弱い方に与えられるべきものなのだ。それでも、あ1ゲームのハンデはシーズン優勝のご褒美として納得出来ると思う。しかし、たとえ100ゲーム離れていても、4勝優勝で最初から2勝も与えてしまうのは、話にならない。それならばクライマックスなどやる意味は無い。クライマックスなどいらないという人にはそれは正論である。しかし、たとえ一勝差で優勝が決まった場合に、クライマックスをするべきというなら、それこそ1勝の差を軽視しているとしか言いようが無い。勝ち差は意味が無いのだ。三位はクライマックスの権利があるということで、シーズン中から戦略の意味があるのだ。繰返すが、クライマックスを否定するなら、勝ち続ければ良い。それだけ盤石になる。しかし、最初からクライマックスのルールは決まっている。いくら勝っても、クライマックスには出場しなければならない(ただし一位なら一勝が貰える)、二位ならば地元で試合が出来る。それ以上のハンデの意味はあるのか。繰返すが、それは単なる強いもの勝ちであり、意味はない。強いものに必要以上のハンデを与えるなら、その存在自体の意味は無くなる。
・前期後期制にすれば良いという意見もあった。(かつてパリーグが行っていた) しかし、良くも悪くも、前期を制した南海は、後期、阪急に負け続けてもフレイオフにおいて阪急に勝つという戦略にて制した。それは良いことか?つまり、野村南海は前期優勝により、後期を捨てる戦略を行ったのだ。つまり、半期は観客にとっては無意味となる。それこそ観客にとっては金を出して捨て試合を見ることになる。プロ野球は、観客の為の試合である。つまり、いかに最後まで観客を楽しませるか、というところで生まれたのがクライマックスである(勿論、その裏にはいかに金を取れるかというところでプロなのだ)。
・ここで再び振り返る。優勝チームに一勝のハンデ。強い側にハンデを与えるのは、本来的には意味が無い。しかし、そこで僕が一勝のハンデを認めるのは、公式戦からクライマックス第二ステージまでに間が空き、一方相手は真剣試合を続けられるという点である。
・だから、もしもクライマックスを改正するなら、チャンピオンチームに、一勝のハンデか、或は自ら三位チーム・ニ位チームとの直接対決をすることを選ばせれば良い。ゲーム勘を大切にするなら、勝ち続ければ良い(勿論、営業的にもハンデ的にも主宰は優勝チームであり、優勝チームが優勝すれば現体制以上の収益がある)。
・とにかく、10ゲーム以上のハンデがあるから、相手が五割以下だから資格が無い、或はハンデが少ないという異論は意味が無い。それならば、クライマックスを無くして、観客の興味を失えば良い。
・確かに当該チームファンしソッポをむくだろうが、プロ野球ファン(僕の贔屓の日ハムは今期五位だったが、それぞれに応援球団を持って楽しめた)は最後まで楽しめるのだ。たとえ、ホークスやジャイアンツのような超つまらない金満球団が相手であっても。(ジャイアンツとベイスターズの三位争い、そしてシーズン三位のベイスターズが金満ホークスに挑戦するという図式)

・ただし。勿論、シーズン優勝という栄誉は無視すべきではなく、それはクライマックス及び日本シリーズとは別格にすべきである。クライマックスも日本シリーズも、交流戦と同じ特殊枠にすれば良いのだ。それにより、シーズン、日本シリーズ、クライマックス、交流戦の四冠という栄誉が生まれる。


hirot15 at 19:20|PermalinkComments(0) 野球 

2017年10月27日

失われた楽園

1940年 フランス PARADIS PERDU
FOUR FLIGHTS TO LOVE
アベル・ガンス監督&脚本 ジョセフ・ザン脚本 クリスチャン・マトラ撮影 ハンス・メイ音楽 フェルナンド・グラヴィ エルヴィル・ポペスコ アンドレ・アレルム ロベール・ル・ヴィギャン

第1次大戦前夜のパリ。新進気鋭のアーティスト・ピエールは仕立て屋の助手・ジャニーンと結婚する。しかし、彼女は出産の際に亡くなってしまい…。

・アベル・ガンスの作品を見るのは初めてかな。「ナポレオン」も「鉄路の白薔薇」も未見。サイレントの監督と思っていたけど、1960年代まで撮っていたとは知らなかった。
・本作の冒頭は快調。画家の主人公はファッション・センスで成功してしまう。元々ファッションの知識などないのだが、一応仕立てられた作品を彼のセンスで改良するのを得意とする。面白いのは、彼は芸術家なので、彼が完成させた服に手を加えられることを良しとしない。中盤に、彼の服を盗作されたこと自体よりも、手を加えられたことに怒りを爆発させている。それはともかく。
・序盤の熱烈な相思相愛は楽しいが、それが一転、彼が戦争で徴兵されてしまうと、アッと言う間に悲劇に転ずる。妻の死のショックで遺児を引き取ることを拒否してしまうあたりは驚き。その幼少の女の子の可愛いこと。二人の再会シーンの二人の間の文字通り<間>
は絶妙。
・終盤はまた、その束の間の幸福の後、いかにもフランス映画的に終るのですが。今更ながら、フィルムノワールに回想が付き物のように、フランス映画も幸福に始まり悲劇に終るというのもパターンなんじゃないか、と気がついた気がする。
 


hirot15 at 23:59|PermalinkComments(0) 洋画 | ドラマ

2017年10月24日

ベイスターズの下克上

・ベイスターズの下克上は、それなりの達成感を味わいました。それほど応援していた訳ではなかったけど、まず巨人には勝ってもらいたかったし、次に阪神とのファーストステージも天候的状態の悪さに同情し(いや、天候だけで決まるなら阪神だったので、そういう意味では阪神に同情もするのだけど、やはり同じ条件で試合して勝つべきと思うので)、更に広島との初戦でまさかの五回コールドは、そりゃないだろうと。一つのアドバンテージを持っていながら、勝ち逃げかよ、と。本来なら広島の方を応援していたのだけど、こうなると判官びいきになってしまいます。(それと同時に、少しでも多くの試合を楽しみたいということもあるのだけど。だから今日の試合も微妙に広島が勝てば、あと一試合見れると思ったけど、同じ気分でヤンキーズは負けちゃったからな)
・正直、ホークスと巨人は金権球団で大嫌いです。広島はその対極でそれなりに応援していました。(日ハムの場合は球団側のシステム主義に反感を持ちますが、まだそれまでの選手間のムードが捨てきれない。新庄の残していった雰囲気、ヒルマン時代の卓球台友好、そして稲葉が日ハムに来て初めて野球を楽しいと思ったという言葉、新庄や稲葉が始めた外野で頭にグラブを乗せての会合シーンの楽しさ) 勿論、その前には大沢親分時代のベランメエ野球があった。現在と違い、故大社オーナーの野球愛がまだ残っていると思いたい。
・話がズレたけど、だから、楽天の敗戦は残念だった。あれはほとんど則本一人の背信で、それさえなければ楽天はほとんど勝っていた。則本は結局、田中マァくんにはなりきれなかったということでしょうか。
・話を戻すと、まあ、逆に言えばCSの広島は広島らしくなかった。その微かな予兆として、シーズン終了前の二人のコーチの退団予告があったような気がします。多分、それまでの完璧な結束がそれでほころびたのではないか。
・それに比べて、ベイスターズの土壇場の強さは、もしかしたらホークスに勝てるかもしれないという望みを持てました。(ホークスの物理的強さは、それ以外の要素が無ければ勝てない)
・ちなみに、相変わらずCS否定論が出ていますが(10ゲーム以上離れていて日本シリーズなど信じられない、と)、先にシステムがある以上、それは言い訳に過ぎない。むしろ10ゲーム以上離して負ける方を問題視すべきです。何より、このシステムがあるから、最後までシーズンを楽しめるのです。だから、逆に、天候により無試合で決着をつけようとする現在のシステムの欠陥の方を問題視すべきです。
・前述通り、実力的にはホークスに勝てる訳はない(ことは誰でも分かっている、つまらなさ)が、ベイスターズの勢い(とラミレスの意外な緻密さ、冴え)がなんとかしてくれるのでは、という日本シリーズへの期待をしてしまうのです。
・(まあ、ホークスは現在の自民党程の極悪ではないけれど)




hirot15 at 22:45|PermalinkComments(0) 野球