ようこそ hirot'sBlog へ

2004/11/25
本BLOGの公開を
開始しました。
映画は、今世紀に入って
ほとんど劇場では
見ていません。
主にDVD、CS、BS放送
による観賞です。
表題後ろにあるのが評価で、
前は客観点(出来の良さ)、
後は主観点(好き嫌い度)。
A-Eにするつもりですが
客観・主観とも
Cが及第点として、
Aが最高評価
Eが最低評価
とお読みください。
よろしくお願いします。

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プロフィール

hiro


2012年05月

2012年05月31日

14歳 BA

楳図かずお著

・現在のところ楳図かずお最後の漫画。本当に最後にならないことを祈るが、それに相応しい凄まじい作品。
・この作品が最新(最後?)であることを知ってはいたが、これまで読む気にならなかったのは、多分、冒頭近くのチキン・ジョージの描写が好きでなかったからだと思う。それとこれほど真摯な終末物と言う事も気がついていなかった。多分、僕が期待していたのは(「14歳」というタイトルからの連想で)「わたしは真吾」の前半的な作品で、チキン・ジョージの存在はあまりにもそのイメージから遠かった。実際、読んでみると全編を通してきよらの母親のエピソード以外、14歳に近い登場人物は出てこない。(読んでみれば当たり前、「14歳」とは終末であり、本作はそこに至るまでの物語なのだから)
・しかし実は本作は「漂流教室」系の物語らしいと知って、ついに読む気になった。どうやら、「漂流教室」は終末後にタイムスリップしてしまった子供達のサバイバル物語であるのに対し、こちらはその終末に至るまでの物語らしい。(ただしこの両終末は正確に同じではないし、両作品が正確に正続関係にあるわけでもない)
・唐突な14歳で終るという予言、チキン・ジョージの誕生(繰返すがこの部分が辛かった)、緑の子供の誕生と植物の唐突な絶滅、そして不老不死の追求。物語はこの段階ではやがて主役となる子供達の親の世代の物語であり、その多くが支配階級(大統領や首相、そして大富豪)の物語であるとが少し意外。唯一の例外がシングルマザーとなる少女、きよらの母親だ。しかしこれまた意外にも、常にこの母親の存在を意識させながらも、物語は最後まで父性の方を貫いてしまうのは、逆に意図的「漂流教室」の裏返しを狙ったのだろうか。
・物語の展開はまさに凄まじい。部分部分としてエキセントリックな展開を描きながら(例えば、植物の絶滅を隠蔽する為に偽の大惨事を演出しながら、その描写に展開が移行してしまう等)、地球は着々ととんでもない絶滅の過程を辿る。(例えば末期は地球の回転が速くなり過ぎた為に乗り物酔い状態になったりする)
・楳図かずおの凄さは、これだけいくつもの暴走して破綻しそうな展開を繰返しながらも結末まで導かれてしまうということだ。例えば、何度チキン・ジョージは変節を繰返し退場しようとも、ついに最後まで存在し続けてしまうように。チキン・ジョージはきよら母子にとっては神様でありながら、人間の天敵であり続ける。(そういう意味で相棒のチキン・ルーシーが終盤で影が薄くなるのが残念だが)
・正直、「漂流教室」のあまりにも感動的な結末に対して、本作はそこまでの完成度は無い。何とか無事に結末に至れたという程度で、オチもマクロからミクロへの逆転という点で目新しいものではなく、そこまでの凄まじいゴリ押しに比べれば大人しいものだ。むしろ、母親の手に残されたきよらのたったひとつの細胞がついに使われなかった事が布石の使い残しのように感じられて残念な気分。
・ゴリ押しのひとつが宇宙船と地球との間で結ばれた通信(立体映像)で息子の危機に父親が実体化して助けてしまうなどという展開もあるが、それは「漂流教室」における過去と未来が通じてしまうエピソードを思い出させる。ただしその印象の違いはゴリ押しに見えるか、一種の感動的奇跡ととらえられるか、の違いなのかもしれない。(まあ僕の印象に過ぎないのですが)
・それにしても、本作はいつにもまして、楳図かずおのイメージの洪水状態。リアリティも、逆にリアリティの無さも、漫画も劇画もごちゃまぜ状態でそのすべてを情念で巻き込み展開させていく。
・終盤で人間に代わってゴキブリが地球で繁栄する展開自体は別に驚かないが、このゴキブリが少女漫画なみの可愛らしい目で愛らしく描かれているのにはちょっと驚いた。しかしこれもまた尻切れなエピソードに感じられたのが残念。

・ここに至れば、楳図かずおの復帰は無くても仕方ないのかもしれないが、はたしていかに。(先日も昼のラジオにゲスト出演していていつもとおりに元気そうだったのは嬉しかったですが)



hirot15 at 00:36|PermalinkComments(0) 漫画 

2012年05月30日

サラリーマンNEO 劇場版(笑) CC

吉田照幸監督 小池徹平生瀬勝久田口浩正中越典子入江雅人マギー山西惇田中要次八十田勇一入江雅人沢村一樹 堀内敬子 篠田麻理子

・NHKの原案(?)バラエティは数度見かけた程度です。ちゃんと見た事は無い。本作はそのいくつかのコントを生かした長編ドラマ。売り上げ第五位のビール会社に入社した新入社員小池徹平が自分の環境にうんざりしながらも新企画が採用されてしまった為に奮闘せざるを得なくなるという最終的には熱血もの?
・この小池徹平が先輩社員の営業方法にうんざりしながらも自分がやってみて全く通用しない、その現実を受け入れ難いあたりは、中盤以降の熱血的展開よりよく出来ているかもしれない。小池徹平は実は良い子役より良い子に見えた現代っ子の方が合っているのかもれしない。だから改心しきった彼は面白くない。
・伊東四朗のゴルフシーンなど、それだけで面白いシーンもあるし、生瀬のようにキャラ的に面白いものもある。しかし全体としては可もなく不可もなくの出来でしょうか。まあNHKから生まれたということ自体が笑えますが。
・残念なのは、せっかく篠田麻理子がそこそこ出演しているのに、もう一つ活かされていなかったことかな。もう少し突っ込んでも良かったのではないでしょうか。あくまでヒロインは堀内敬子ということかな? ところがギャグ的に割り込んで来る中越典子の方がなかなか面白かったりして。

Zom's



hirot15 at 01:46|PermalinkComments(0) TV 

2012年05月29日

レベル7 DD

平野俊一監督 宮部みゆき原作 渡邉睦月脚本 玉木宏 杏 瀧本美織 田中哲司 竜雷太 白井晃 佐野史郎 伊原剛志

・TBSによる企画「宮部みゆき・4週連続“極上”ミステリー」の最終回。原作未読。
・これまでの三作がそれなりだったので最終回に期待したけど、これはちょっとがっかりした。多分、原作発表(1993年)当時は意欲作であったことは理解出来るけど、それから20年近く経って、奇しくも終り近く、竜雷太が「20年後」を口にしたこと。
・正直、現在にこの題材をこのように扱う事は時代のズレを感じるのだが、製作(脚本)側は、それに気がつかなかったのか、それとも敢えてこのズレを描いて最後の竜雷太の言葉となったのか。繰返すと、このドラマのように現代から見て20年後と言われれば何をズレたことを、と思うが、原作発表当時から見て20年後の現代と考えれば、そのズレはピタリとはハマるわけだ。
・ただし、物語自体としても、この四作の中では最も弱く凡庸に感じる。レベル7というキーワード自体が遊離してしまっている感じ。SF的であり、近未来的なガジェットの筈が、まるで機能していない感じで、玉木と杏が演じる主人公カップルの記憶喪失も事件の本質から見ればまるで機能していないし(わざわざ記憶喪失にしてから記憶を戻させようと苦労しているのがお笑い)、そんなことをするくらいなら、最初から二人に芝居を頼む方がずっと自然な流れだろう。
・前述の主役二人に加えて、瀧本美織も好演していただけに、内容的に残念な一作だった。題材も含めて空回りな作品。



hirot15 at 08:51|PermalinkComments(0) TV 

2012年05月28日

渇き BB(?)

パク・チャヌク監督 ソン・ガンホ キム・オクビン シン・ハギュン キム・ヘスク オ・ダルス

・復讐三部作(「復讐者に憐れみを」「オールドボーイ」「親切なクムジャさん」)を撮った後のパク・チャヌクは「サイボーグでも大丈夫」という作品を撮り、これが僕にはどうにも受け入れられなかったのですが、近作の短編「ナイト・フィッシング」を見て、見落としていたこの「サイボーグでも大丈夫」の次の作品を観た時、更に混乱は極まった気分。
・正直、「サイボーグでも大丈夫」はあまり間を置かずに見た「僕の彼女はサイボーグ」とごっちゃになってしまっていたのですが、両作品の過去の僕自身の寸評を読み返して何とかおぼろげに「サイボーグでも大丈夫」を思い出した。「僕の彼女はサイボーグ」は同じ韓国人クァク・ジョエン(猟奇的彼女)が日本の綾瀬はるかと小出恵介を主演に撮った日本映画で本物のサイボーグの話。一方、パク・チャヌクの「サイボーグでも大丈夫」は自分をサイボーグと思い込んだヒロインの話で、幻想としてはSF的シーンも出てきたけど、実は精神を病んだ物語でした。
・そして本作では吸血鬼です。しかも今回は本物の吸血鬼で、特撮シーンもしっかりある。主人公の神父は信仰的無力感からアフリカで死病の実験台に志願し死亡するが彼に使われた輸血の影響か、吸血鬼となって蘇ってしまう。神父としての倫理観(人間としてのそれを強化した感じで)と吸血を欲する本能との戦いの上に、幼馴染みの妻との出会い。エミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」を主題としているとのことですが。僕は「テレーズ・ラカン」は未読ですが、どうやら悲恋物というより悪女物のようですね。
・「サイボーグでも大丈夫」を喜劇なんだろうと解釈していますが、本作もまた、喜劇ととらえるべきか、シリアスにとらえるべきか、おそらくその両方の不条理劇なのであろう事は「ナイト・フィッシング」の感触で納得が出来るのですが。
・吸血鬼としての蘇りが聖者と誤解され、幼馴染みの殺人の後、幽霊に悩まされ、救ったと思っていた女に騙されていた事を知り彼女も殺してしまうが、そんな彼女を葬り損ね・・・喜劇的シチュエーションと悪夢的シチュエーション、正気と狂気が完全に入り交じって何とも言えない展開になっている。
・エンディングにしても、生と死の非常にシリアスな展開を、互いが吸血鬼であり超人的能力と弱点がある故にまさにギャグ的描写をシリアスに演じることになっている。多分、それは失敗した展開を意図的に逆転させようとしているのだ。
・幼馴染みの母親の描写もまた凄い。一見、シンデレラの義母的に見えながら、周りの者の殺戮シーンの間も、そして最後までまさに立会人のように事態の進展を見続け続ける存在。さすがキム・ヘスクですね。



hirot15 at 01:36|PermalinkComments(0) 映画 

2012年05月27日

アナザーフェイス DD

アナザーフェイス 刑事総務課・大友鉄
内片輝監督 堂場瞬一原作 中園健司脚本 仲村トオル、黒谷友香、木村祐一、鈴木福  六角精児、益岡徹、窪塚俊介、光石研  遠山景織子、AAA、吉行和子、宇崎竜童

・予告を見てスタジアムを舞台にした誘拐劇で仲村トオル主演という事に興味を持ってみましたが、これは見込み違いか。
・まず仲村の役柄が子育ての為に総務にまわった元敏腕刑事がこの事件の為に呼び戻されるという発端だが、復帰を渋るところは良いとして、その応じ方が子供の誕生日に応じるというのは駄目でしょう。設定が台無し、単なる総務にまわった事件という背景説明に終ってしまっている。
・更に期待したスタジアムの使い方や描写が最悪。全く面白くない上にこれでは刑事と管理官が単なる馬鹿。刑事が予め場所の性質を分かっていながらあんなに簡単に目標を見失う(会場に入る事を想定していない)ことにも呆れるし、刑事でなくとも5万人を席で持ち物検査をするなどという馬鹿げた指示も呆れるし、人質の救出もされていないのにそんなに派手に動き回る刑事たちにも呆れる。
・人質が無事に帰ってからの子供との交流は悪くないし、キャストとしては一応、仲村、吉行和子、光石、遠山は機能している。特に遠山は最近壊れキャラでバラエティに出ているのにこれほど真面目な演技が出来る事に感心。しかしそれ以外は全員駄目。ヒロイン扱いの黒谷は全く使われていないし(わずか数シーンの登場で最後に再婚相手候補とはこれギャグか? とにかく黒谷の扱いは可哀想)、宇崎も下手上手な素人演技を活かせる監督が使うから生きるのであって、このようなルーティンなキャラをルーティンな演出で演じさせても宇崎本人で本人に似せたキャラを真似しているだけ。
・そして結末、真相も、ほとんど最初から予想がつく意外さで、しかも全然推理の展開が無い。単に説明されるだけ。
・原作者の堂場瞬一が悪いのか脚本と演出が悪いのかは分かりませんが、この原作者の小説はひとつも読んでいないけど、ドラマ化は「警視庁失踪人捜査課」シリーズと「鳴沢了」物一つを見ていた。うーん、という感じですか。どちらもキャラは悪くないけど、中身がいまいち、というか、そうか、それは本作も同様だ・・・・



hirot15 at 00:21|PermalinkComments(0) TV 

2012年05月26日

野いばら DD

梶村啓二著

・第三回日経小説大賞受賞作で辻原登が絶賛していた記憶があったので、楽しみに読んだのですが、残念ながら僕はひとつ乗り切れなかった。
・現代、種苗買い付けでイギリスを旅行していた男がレンタカーの故障で田舎のイギリス人女性に助けられる。その女性が先祖の残した書き付けを日本人に読んでもらいたいという書き付けを託され、仕事が片付いた後読んでみると。というところで、幕末、生麦事件で不穏な雰囲気の中、香港から日本に転勤を命ぜられ、妻をイギリスに帰して一人日本に向かったエヴァンズは・・・日本で美しい日本語教師に巡り会うが、彼女の背景には怪しい武士の影が見え隠れして・・・
・現代の書き付けの読み手が種苗関係の職に就いており、彼が助けられた女性の庭には明らかに日本庭園の面影があることに気がついていたり、或はエヴァンズもまた日本の植物に興味を持っていて、それは当然、野いばらに辿り着くわけですが、当然、ドラマの展開として野いばらの意味は変質している。勿論、それは当然の事であり、それでいいのだけど、何とも元々の意味合いの方が薄れてしまっているように感じてしまうのが残念。勿論、二人の悲恋は中心にあって当然なのだけど、僕にはそれだけにスポットが当たり過ぎて全体が陳腐な印象になってしまった。
・間奏的に現代における束の間の再会と、結末で彼女にもう一度連絡しよう、という意味深なエピソードで締められているけど、それもまた、意味深なだけで、弱過ぎる(独りよがりではないか?)と感じてしまう。
・これ、辻原は多分、自分もこういう作品を書きたいという欲求が絶賛につながったのであり、作品そのものはかなり未熟だと思う。確かに辻原自身が同じ題材で書いたら、多分非常に濃密な作品になったのだろうな、と残念。多分、展開も結末も類似したもの(だから辻原も共感・共鳴した)になったのだろうけど、その差は読者側には大きな差があるだろうと思う。



hirot15 at 01:46|PermalinkComments(0) 小説 

2012年05月25日

無宿 DD

斉藤耕一監督 勝新太郎 高倉健 梶芽衣子 安藤昇 山城新伍 殿山泰司 藤間紫 中谷一郎 荒木道子 神津善行 大滝秀治

・これはあまりにももったいない作品。僕自身、「偶然完全」を読むまで本作の存在自体を知らなかったのだけど、勝新太郎と高倉健の唯一の共演作品、ヒロインが梶芽衣子というあまりにも魅力的な組み合わせで、しかも題材が海の宝探しといえば、誰もがそのもの「冒険者たち」を期待するでしょうが・・・
・「偶然完全」を読むと、高倉側から申し出があり、高倉としてはそれまでのキャラのマンネリから抜け出たいという欲求、勝新太郎も高倉の気持ちが痛いほどわかった(自分自身もシリーズキャラにうんざりしていた)故に、わざわざ監督に斉藤耕一(津軽じょんがら節)を招いて製作したのでしょうが・・・
・残念ながら、それらの要素が全く化学反応がなかった映画。
・勝新太郎自身は懸命にそれなりに演じている。しかし高倉は抜け出たい任侠キャラをどのように抜け出すのかわからずに中途半端に任侠キャラをひきずりつづけるキャラ。それが「冬の華」のようにそれまでのキャラのアンチテーゼとしてはっきりしていたら演じやすかっただろうに、今回の役はそういうはっきりしたものではなかったところがイタい。安藤昇との決闘シーンもだから中途半端でクライマックスにならないクライマックスもどきとなり、本物のクライマックス自体もクライマックスを否定した、悪い意味で斉藤耕一的なものが出てしまった。
・梶芽衣子も、ああレティシアは明るかったなあ、梶芽衣子にそのようなキャラは無理だよ、と。レティシアは明るかった事による悲劇のヒロインになれたのであり、梶芽衣子的悲劇キャラとは正反対の存在だった事を痛感する。しかも(少なくとも映画の中では)最後まで一人取り残されてしまう彼女は悲劇のヒロインにさえなれない宙ぶらりんの取り残されキャラになってしまうのだ。
・彼女がヌードで泳ぎ、勝新太郎と高倉健がそれに続いて泳いでいくシーンのシーンとしてのみっともなさは何なんだろう? あまりにも悪しき日本映画の典型。
・そう、ちょうどこの後、映画を見始めた僕(中学一年)は、社会人になるまで日本映画の表象としてこんなものだろうと思っていた。(例外として森田や大森がいたのですが)

・実は、このDVDの特典映像としてついていた3分程度の予告編は、本作を観た後ではなんと面白そうな予告編だろうと感動してしまう。なんで、この予告編のような魅力的な本編にならなかったのだろうか? 本編の悪さにより予告編が傑作に思えてしまうというのは、「ロッキー3」以来のものです。あちらは当然、先に予告編を先に見て感動して、楽しみに見た本編に見事なまでに裏切られたわけですが。

・本編では全く魅力がない高倉健だが、予告ではちゃんと存在感がある。梶芽衣子も、予告ではヒロインとして機能している。勿論、勝新太郎も大きく期待をさせてくれる。

・ちなみに本作が作られたのが1974年。高倉健のフィルモグラフィを見ると、「日本侠客伝」シリーズは71年で終了、「昭和残侠伝」シリーズが72年終了、同じ72年に「関東緋桜一家」で藤純子引退、73年「ゴルゴ13」、本作と同じ74年ハリウッド映画「ザ・ヤクザ」、75年「新幹線大爆破」、76年「冬の華」で東映を去り、同じ76年「君よ憤怒の河を渡れ」(大映)、77年「八甲田山」(東宝)「幸福の黄色いハンカチ」(松竹)、78年「野性の証明」(角川!)に至ります。(80年「遥かなる山の呼び声」81年「駅」83年「南極物語」)




hirot15 at 01:40|PermalinkComments(0) 映画