ようこそ hirot'sBlog へ

2004/11/25
本BLOGの公開を
開始しました。
映画は、今世紀に入って
ほとんど劇場では
見ていません。
主にDVD、CS、BS放送
による観賞です。
表題後ろにあるのが評価で、
前は客観点(出来の良さ)、
後は主観点(好き嫌い度)。
A-Eにするつもりですが
客観・主観とも
Cが及第点として、
Aが最高評価
Eが最低評価
とお読みください。
よろしくお願いします。

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hiro


2006年07月

2006年07月31日

サウンド・オブ・ミュージック(完全吹替版) CC

ロバート・ワイズ監督 ジュリー・アンドリュース/クリストファー・プラマー/リチャード・ヘイドン/エリナー・パーカー

 云うまでもない名作だけど、DVDで歌まで日本語になった版が出るのは初めて。実は、「サウンド・オブ・ミュージック」が初めてDVDになった時、僕は日本語吹替えを確認した上で購入しているのだが、僕としては驚くべき事に、これは歌は原語のままだったのだ。特にDVD発売直後は、DVDの可能性が宣伝されていた時でもあり、まさか歌が原語のまま<だけ>とは考えもしなかった。逆に、今回発売のように、英語、日本語+英語の歌、全て日本語の3ヴァージョンくらい、明記していなくてもあり得ると思っていたのだ。DVDのシステムとしては簡単なことなのだから。しかし、今回、やっと、<一応>それが実現したのだが。
 しかし、なんでこうするなら、完璧にしてくれないのだろう。歯がゆくてしょうがない。今回、確かに歌は日本語になっているが、一緒に字幕を選択すると、原語に対する字幕しか出ない。日本語だから字幕は必要ない。一見、当然のような主張だ。しかしこういう家庭向きミュージカルを家庭で見る事を想定したら、子供や親が一緒に歌を歌う事もあるでしょう。どうして字幕をつけてくれないかなぁ。
 それと、日本語歌詞がイマイチ。さすがに「ドレミ」は知られた歌詞を使っているけど、他の曲の歌詞がピンとこない。はっきり云ってかなり下手な訳詩。字幕無しに聴いていて、何?と思う歌詞がしょっちゅう。もっと良い歌詞を過去TV放映等で見た覚えがあるのだけど、勘違いか。何度も上演されているであろう舞台劇でこのような歌詞で唄われているとしたら、僕は見に行かなくてよかったと思うだろう。
 キャスティングの布施明、島田歌穂、華原朋美は仕方ないのかな。過去にもっと良いキャスティングがあったことは確かと思うけど、多分、TVだから抜けの部分があり、使えないのかもしれない。版権もあるだろうし。布施は無難も華原は意外によくやっている。少しひっかかるのはやはり島田だな。ちなみに、歌が原語版は吹替えも別で、ベテランの武藤礼子がやっている。今確認したら、やはり訳詞は、「ドレミ」だけペギー葉山の有名なもの、それ以外は もりちよこ という人になっている。
 やっぱ、子供が原語で見れるようになるまで待たなければならないのかな。

 勿論、映画の内容については、今更語るまでもない、オールA級、今回の評価は歌の吹替えについてが全てです。(だから本来、それだけならEにしたい)

 日本語歌詞と字幕について。改めて調べてみたら、SingAloneとして、僕が前述したカラオケ字幕のような機能はちゃんとついていた。しかし、何故か、本編と分離していて、本編ではそれが出来ないのです。これはなんとつまらないことをしているのだろう。多分、歌だけ寄せ集める為に、本編とは別にひとつそうした編集版を作ってしまったのだろうけど、何と無駄なことを! 少なくともDSPでさえ、簡単にそんなシナリオは作れるのに。その分、画質・音質を上げるべきだ。

 特典ディスクに、現実のトラップ・ファミリーについてのドキュメンタリーが収録されていたけど、簡単に要約すれば、トラップ大佐はあれほど厳しい人でなく、マリアより優しい人だった。映画化の際にはその部分の改善を求めたが、つまらなくなるということで拒否された。マリアは大佐を愛していないで、子供達が好きで結婚を承諾した。修道院に相談に行ったのは、大佐を愛しているからでなく、愛していないのに結婚する事についてだった。ただし、大佐が無くなった時は、心から大佐を愛するようになっていた。マリアの専制により、子供達は合唱団を維持する為に、人から遠ざけられ、結婚も出来ない生活を強いられた。それを何とか支えたのが父親だったが、父の死後、子供達の何人かは家出する。そのうち一人は電気ショック治療をされ、合唱団に戻る事はなかった。合唱団全盛期に、マリアは映画の基となる自伝を書くが、決して映画化,舞台化の権利を渡さなかった。それはマリア自身が主演するという条件をつけたからだ。しかし子供達の脱走により、レベルが落ち、人気が落ちて、権利を譲るとき、今度は弁護士をつけなかった為、根こそぎ権利を奪われてしまい、「菩提樹」(最初の劇映画化)、ブロードウェイ・ミュージカル化、映画化、全く歩合は入らなかった。あまりに気の毒に思ったか、最後のこの映画化に際しては、少しだけ払われたそうだが。それと、この映画では、マリアが押し掛けて、通行人でほんの少し出演している。本当にほんの少し、ちゃんと確認出来ないほど小さく・・・
 まあ、しかしこういうことは知らない方がいいような気がする。

at 10:07|PermalinkComments(0) 映画 

2006年07月28日

060713s

 アップしました。今回はiDiskとPodcastに登録したものは同じです。iPhotoのスライドショーでない方で書き出したものをそのまま登録しました。だから画面サイズが大きいので、iPodにはおとせません。iDisk用で登録は出来ると思っていましたが、果たして写真切り替え時のディゾルブが出来るかが心配だったのだけど、見比べてみたら、少しぎこちなくはなるけど、一応ディゾルブはしていましたね。
 相変わらずタイトルは無題で、数字は日付なのですが、作成日でなく、撮影日というわけでもなく、カメラのメモリに溜まった写真をiPhotoに登録した日です。別に、その固まりで作る必要はなく、実際、別のグループも使おうとしたのだけど、一部例外はあるものの、そうすると色々な意味で収拾がつかなくなる。
 sはPodcastの方を見れば示していますが、ショートヴァージョンということです。元々は音楽の方が3ヴァージョン出来てしまい、まず長い方で作って、次に一番短いもの用に写真を削って行ったのだけど、それと同時に、若干の順番の変更、未使用写真の追加をしたくなり、ちょっと印象の違うものが出来たので、どちらにも愛着がわいてしまった。音楽自体は長い方が好きなんだけど、ちょっと長過ぎる気がして、今回はPodcastにiDisk用をそのまま登録する実験も含めて、短い方をアップすることにしました。

at 08:49|PermalinkComments(0) スライドショー 

2006年07月27日

人は何で生きるか  AA

レフ・トルストイ著 北御門二郎訳

 実は昔、トルストイは二人いるのだろうかと思っていた頃があった。つまり「戦争と平和」などの大作を書いていた文豪トルストイと、「イワンの馬鹿」という童話を書いたトルストイだ。僕の印象では、この二つが交差する記述はあまり記憶にない。(勿論、「イワンの馬鹿」を読む子供に「戦争と平和」の話をしてもしょうがないだろうし、「戦争と平和」の解説で「イワンの馬鹿」は登場しないだろう) トルストイの逸話で一つ印象に残っているのは娘(?)が「復活」を読んでいるとトルストイが「そんな通俗小説は読むな」と怒ったという話。「イワンの馬鹿」は、「鉄腕アトム」の「イワンの馬鹿」を読む前に読んでいた(そして以後読んだ記憶もない)ので小学三年より前だろう。「戦争と平和」等を読んだのは大学時代だ。同時期に読んだ「カラマーゾフ」の方が印象は強いが、オードリー・ヘプバーンの「戦争と平和」を楽しく見る事が出来、ヘンリー・フォンダが好きだった。

 さて、本書は「トルストイの散歩道」というシリーズの第一巻で、トルストイの民話シリーズらしい。第二巻は「イワンの馬鹿」だ。これにより、僕の中の両トルストイが同一人物であることが改めて確認された。(それ以前にも何となく確認はしていたと思う) 同時に、解説により、トルストイが自らの大作よりもむしろ民話を重視していた事、ロマン・ロラン、ガンジー、チャイコフスキー等もこれらの民話を重視していた事を知る。トルストイが娘を怒った話をここで思い出したわけだ。
 この第一巻「人は何で生きるか」は大きめでゆとりある字で六十数ページ。靴屋が路上に裸でいた男を拾う話だ。中盤に至るまで、靴屋やその女房の視点から、この裸の男に対する気持ちが語られる。途中、金持ちが靴の注文に来る事件がちょっとした緊張感を与えるが、全体としては淡々とした展開だ。しかし、これらの記述の積み重ねの上で、最後に裸の男の側からの出来事の語り直しにより、「人の心の中には何があるか」「人に与えられていないものは何か」「人は何によって生きるか」という三つの命題が、子供でも分かるように明らかになるのだ。

 北御門二郎という訳者は、「戦争と平和」等を自分で翻訳し直して話題になった人ですよね。何となく覚えています。もうお亡くなりになっていますが、今度読み直すなら、この人の訳で読み直したいな、と思いました。

at 06:42|PermalinkComments(0) 小説 

2006年07月26日

ナイトウォッチ CC

ティムール・ベクマンベトフ監督 コンスタンチン・ハベンスキー / ウラジミール・メシニョフ / マリア・ポロシナ / ディマ・マルティノフ / ガリーナ・チューニナ

 光と闇の対立を描くロシアン・ファンタジー。三部作の第一部らしいが、良くも悪くもハードな内容。非常に面白い部分もあるのだが、同時に分かりにくい部分、納得いかない部分も多い。
 例えば、一瞬で虎に変身して手を叩く事を阻止出来る存在が(冒頭近くの描写)、何故、たかが少年がひいひいしながら梯子を上がるのに追いつけないのか。見える、見えないの描写もかなり分かり辛い。光と闇が、単なる善と悪、と解釈しきれない部分は良いが、それでも光の側に主人公を置くのは規定概念から逃れきれていないからか、それともその方が観客に分かりやすいからか。でも、一流の作家が同じ設定を描くなら、逆に光を正義に見せながら、段々と同格にしていくのではないか。
 第二部は「デイ・ウォッチ」というタイトルになるらしいが、タイトルと共に構造も逆転すれば面白いかもしれない。ちょっと期待。

Zom's

ゆみだす

at 05:19|PermalinkComments(0) 映画 

2006年07月25日

本に恋して

松田哲夫著

 最近の読書情報源にNHKBSの週刊ブックレビューがあり、そこで琴線に触れた本を図書館に予約し、読む。ただし、レビューで取り上げた本は概して人気があり、予約になる。あまりに予約が多いと諦めるが、そこそこだと予約してそのまま忘れる。この本もそうした一冊。基本的には本好きの編集者が、自分のテリトリーだけでなく、本が作られる過程を知りたくなり、探る本。予約したまま忘れていたが、順番になり読んでみるとそれなりの感動がある。正直、作者は本の作られる過程を実に詳細に描写しているが、僕は半分も理解出来ていないだろう。僕としては、そうした部分は流し読みにしなければ読み通すことに自信がない。いつか、詳細な過程を理解する必要に迫られれば、それしそれで幸せな事かもしれないが、今は、詳細でなく、概略に惹かれる。
 普通、編集者が注意するテリトリーとしては装丁までである。だから、最初に著者は著者自身の信頼する装丁者を話題にし、その出来を語る。一方、造本まで遡ると、それは例えばすぐ表紙がそるとか、箱から出しにくいとか、そうした苦情からしか意識せず、しかも解決は現場任せとなる。作者が装丁以降、製本までに気が入ったのは、ひとえに作者の本好き故だろう。最も、詳しい丁寧なイラスト入り解説自体は、前に述べたように、僕は流し読みとなる。
 思えば、僕は全く興味もなく、作者の行ったDNP神谷工場近くや、錦糸町近くの工場に行った事がある。当時務めていた会社の決算現場検証等の用事だ。ほとんど休日出勤で、当時は面倒の一言だったが、興味を持ってみれば、こういうことが実感出来たのかもしれない。もっとも、現場はこのように丁寧な対応であることはあり得なかっただろうが。それでも感慨は持つ。現状に興味を持ち続ければ人生は違っていたかもしれない。
 或は、読みながら再び過去に誘われる。中学時代、とても好きだった女の子と、とても好きだった友人の会話に割って入った思い出。本の装丁に付いて話していたので、僕は当時気がついていた事を話した。曰く、新潮、角川、講談社などの文庫の、僕は実質的な大きさ、文字数について。彼らは、ページ数で簡単に把握していた。その捉え方の差を、彼らは受け止めてくれたけど、僕は何故かその差に溝を感じた。一方で、僕の「レ・ミゼラブル」の完璧な把握に彼らは驚嘆してくれて、僕は誇らしかったが、今、思い返して、僕自身、もはや「レ・ミゼラブル」に関する完璧な把握が霧散していることに嘆かずにはいられない。当時、好きだからこそ、あれほど完璧だった事が、何故、これほどもろく崩れ去ってしまうのか。アルツハイマーでもいい。当時の記憶くらい、大事にしたかった。どんどん切り崩されていく現実的過去の記憶の消失ほど悲しいものはない。当時の思い出。新潮も角川も他の文庫も、底辺は揃っていたが、上辺はぎさぎざだった。講談社文庫が創刊された時、講談社文庫のみが上辺も揃っていて、とても美しかった。ただし、最初に買った講談社文庫の「罪と罰」は、美しい装丁、紙質にもかかわらず、買った本が乱丁で、二重写りになって読みにくく、当時中学一年生だった僕は、書店に苦情を言う事もなく、何となく美しいとは認めつつ、講談社文庫との相性の悪さも感じたのでした。(結局、「罪と罰」を読み終えるのは手塚治虫や大島弓子の漫画の後になる)

 予想通り、本書の後半に至って専門的になっていくに従って流し読みになってしまったけど、それでよしとしよう。

at 00:15|PermalinkComments(0) その他読書 

2006年07月24日

HELL CC

リンゴ・ラム監督 ジャン=クロード・ヴァン・ダム/ローレンス・テイラー/アーニー・アルトン/ロイド・バティスタ/クリストファー・モア/ビリー・リーク/マラカイ・デビッドソン

 ヴァン・ダムにリンゴ・ラム。もはやそれほど期待出来ない事は分かっていても、やはり気になって見ないではいられない。しかも、本作品は刑務所もの。刑務所ものは、リンゴ・ラムのにはかつて名作「監獄風雲」二作がある・・・
 ヴァン・ダムはロシアに赴任中、妻を強姦殺人で失い、しかも裁判は明らかな犯人をワイロによって無罪とする。ヴァン・ダムは怒って裁判所の中で犯人を射殺し、仮釈放無しの終身刑になってしまう。その刑務所の非道。彼はそこで生き抜く為に、看守達の賭けの対象となるデスマッチの選手となるが・・・
 かなり陳腐な展開で、ほとんど見るべき点はない。リンゴ・ラムが味を出そうとすればするほど、陳腐になる悪循環かもしれない。しかしそれよりも何よりも悪いのは、ヴァン・ダムに期待される格闘シーンがつまらないのだ。しかも、ここにはもはやヴァン・ダムの回し蹴りの美しさすらない。ひたすら泥臭い格闘だ。
 リンゴ・ラムはハリウッドにおいて、やはり香港流アクションを期待されて、元々それが本質でない彼はいくつかの小手先で凌ぎ、しかしついにアクションから抜け出す事は出来ず、三流の地位に落ち着いてしまった。いや、本作においてもそこから抜け出そうとしていることは分かる。それが、多分、派手さ抜きのヴァン・ダムであり(しかし一方でヴァン・ダムはアクションでなければ企画は通らない)、クライマックスに至る展開だろう。しかし、そこにはもはや「監獄風雲」におけるような演出の上手さは無くなっているのだ。
 かろうじて、アクションをクライマックスからずらせてはいるが、しかしそれでもあまりに容易な展開、結末でしかない。
 リンゴ・ラムも香港に戻り、初心にかえるべきではないのかな。

at 10:37|PermalinkComments(0) 映画 

2006年07月21日

機動戦士Zガンダム1星を継ぐ者 CC

富野由悠季総監督

 TVシリーズの劇場用再編集版三部作の第一作。オリジナルはTV版と同じく劇場版三部作の時差はあまり無いが、今回は、TV放映は、僕が社会人になりたての頃、20年以上の時差がある。そしてオリジナルに熱狂した後、期待して見たこの「Z」は途中でついていけなくなり、放棄した作品でもある。(TVシリーズにはほとんどついていけなかったが、劇場版の「逆襲のシャア」「F91」などは見ている。そしてTVシリーズの近作も、見ないのに、録画だけはしてしまっている・・・未練か見れんか・・・)

 TVシリーズでもついていけなかったのだから、そのダイジェストとなってしまっているこの作品は、ダイジェストだから分かりやすいのか、それともますます分からないのか。どちらとも云えない。相変わらず展開についていけたとは云えないのだが、約100分、何とかついていく事は出来た(か?)
 新たな主人公カミーユはアムロの出来損ないという感じで感情移入出来ないのだが、ブライト、シャア(クワトロ)などとの再会はそれなりに懐かしく、更にフラウ・ボウやカイ、タケシの再登場は更に嬉しかった。フラウはタケシと結婚し、ブライトはミライ(本人は登場しないのが残念だが)と結婚している。アムロは今もセーラを想っている?? そのアムロの再登場も、さすがに感激だ。その登場の仕方、そして第一部クライマックスの活躍。一瞬、死んでしまうのかと思った!! そこから反転してのシャアとアムロの再会は、まさに見事なエンディングと云えるだろう。そこに一緒に主人公カミーユが立ち会っている事は、僕にはどうでもいいことだった・・・
 まあ、今も颯爽としたシャアと疲れた感じのアムロ、その他の再会も含めて、一種の同窓会といった感じですね。

 内容的にはとやかく云えないけど、重力に(精神的に)縛られた者、重力に縛られていないものの、その重力に不自由する姿(物理的に)、が描かれているのは、それなりに良かったと思う。

 印象として、富野は、やはり新人類を夢見る旧人類、「エヴァ」の人は新人類になりきれなかった可哀想な人、「」の人は、もしかして突き抜けられるかもしれないと予感させてくれる気がしました。(原作からの突き抜け方からフリッツ・ラングの使い方の上手さまで、非常にバランス良くイメージを展開させている)

at 09:36|PermalinkComments(0) 映画