ようこそ hirot'sBlog へ

2004/11/25
本BLOGの公開を
開始しました。
映画は、今世紀に入って
ほとんど劇場では
見ていません。
主にDVD、CS、BS放送
による観賞です。
表題後ろにあるのが評価で、
前は客観点(出来の良さ)、
後は主観点(好き嫌い度)。
A-Eにするつもりですが
客観・主観とも
Cが及第点として、
Aが最高評価
Eが最低評価
とお読みください。
よろしくお願いします。

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プロフィール

hiro


2005年06月

2005年06月30日

Mr.インクレディブル  CC

ブラッド・バード監督 クレイグ・T.ネルソン/ホリー・ハンター/ジェイソン・リー/サラ・ヴァウエル/スペンサー・フォックス/サミュエル・L.ジャクソン(三浦友和/黒木瞳)

 ちょっと面白そうだな、と思っていたのですが、一緒に見た甥っ子の反応は鈍かった。僕も見ながら、子供(小学生)の楽しめる内容ではない部分が多すぎるな、と思っていました。もっとも、それは日本の子供だからということもあるかもしれない。アメリカ人のスーパーヒーローは今の小学生でも、スーパーマンもバットマンもスパイダーマンも、みんな知っているでしょうから。でも、日本の子供は、仮面ライダーやウルトラマンや戦隊ヒーローは知っていても、あちらのヒーローをどれだけ知っているか。スパイダーマンと単体で知っていても、それがインクレディブルの描いた世界に結びついていないのです。まあ、それは仕方ないことかもしれませんが。
 しかしスーパーヒーローが社会の邪魔になるという図式は、完全にパロディの図式なんですよね。昔、僕が小学低学年だったと思うけど。森田健次が「ズーズーC」の中で、ウルトラマンのパロディを描いた。ズーズーCのウルトラマン(名前は忘れた)は、見事巨大化して怪獣を倒し、ヒーローになるが、地球のために私はこのまま残ります、と世間の喝采を浴びたのも一瞬だけ。その後はその食費だけでお荷物になってしまうという結果が描かれていました。これは子供ながらに分かりましたね。「インクレディブル」は40年近く遅れてこのパロディをやったわけだ。(まあ、その間にも色々あったとは思うけど)
 その他、特に前半は子供にはつまらないシーンが多すぎたと思う。僕自身もあまり面白くはなかった。(ちなみに、甥っ子も後で聞いたら、だいたいの展開は把握していたので、理解はしていたみたい)
 で、この作品が楽しめるのはやっぱり後半ですね。家族が一致協力してスーパーヒーロー・チームとなる。こちらの展開は、まあまあ楽しめました。それにしても敵のロケット基地の雰囲気は007(僕は特に「二度死ぬ」あたりを思い出しましたが)によく似ていたような気がした。音楽もかな? そういえば事件の後に、もひとつあるのも007の定番だ。
 後半部分で難を言えば、赤ちゃんの能力が漠然としていた点。なんでもあり?なんて気がしてしまい、ベビーシッターからの電話に期待していた未知の能力の期待がボヤけてしまった。そういう意味で、DVD特典にあった、その部分を描いた短編はなかなかの傑作。これが先に出来ていたなら、本編中の描写は情けない。逆に、後から作ったなら、最初からこのレベルに練っておくべきだった。
 それともう一つ。あのユニフォームデザイナーは最後にもう一度出すべきでしたね。マントが邪魔になるという部分は、やはり何か一言フォローしておちつけるべきだった。(あのデザイナーは今作品中、ベストキャラ。氷のおじさんも良かったけど)
 全体として、あらゆる意味で、もっと面白くなったはず・・・・

Zom's


at 11:55|PermalinkComments(0) 映画 

2005年06月29日

タイガー&ドラゴン  BC

宮藤官九郎脚本 長瀬智也、岡田准一, 伊東美咲, 塚本高史, 蒼井優, 阿部サダヲ、西田敏行、笑福亭鶴瓶

 年初に特番として放送された単発ドラマが連続ドラマとして戻ってきた。これまで録りっぱなしだったのを一気に見たけど、単発ドラマの時より面白く仕上がっている。あの時感じた<もう少し面白いはずなのだが>というふっきれなさがここで払拭された感じ。
 パターンとしては、不幸な身の上に生まれた主人公タイガー(長瀬)が、偶然落語の面白さに目覚め(なにせ、彼はそれまで笑ったことがなかったのだが、そこらの顛末は特番で描写済み)、借金取り立て相手の落語家の弟子となって、毎月月謝をそのまま取り立て金として受け取っている。毎回、一つずつ噺をモノにして、最後に借金の返済で終わるわけ。一方で、この噺家の息子ドラゴン(岡田)は落語の天才なのだが、親元を飛び出して全く才能のないデザイナーになろうとして奮闘中。この二人は、女(伊東美咲)の取り合いで犬猿の仲。
 で、毎回の話の中身は、身につける噺に模した事件が起こって、タイガーがそれをアレンジした噺をすることによって、噺自体をモノにする。このタイガー、噺をそのままやっても、本人、中身が理解できないからひとつも面白くない。しかし、実体験として噺を追体験するから、中身が理解できるわけだ。構造として、西田敏行演ずる師匠がオリジナルとしてその噺をする。(オーソドックスなイメージ映像付き) それがいつの間にか、実際の事件に重なったイメージ映像となり、最後はそれをタイガーが噺をして、観客に受けるわけだ。
 このようにパターンは見えてるけど、まあまあうまくこなして、しかも落語を知らない視聴者も落語の大筋が理解できるという有り難い内容。一部、落語ブームが始まったという噂もちらほら。
 まあ、いいのではないでしょうか。後半に入って、宮藤組とも言える準レギュラー達が顔を見せ始めた。古田新太、薬師丸ひろ子、小日向など。
 最終回も、その前でクライマックスに達した上で、うまく収束させてくれた。全体として、優等生的仕上がり。
 ただし、一つだけ致命的だったのが、ドラゴンを演じた岡田が天才落語家という設定なのに、全く落語が面白くない(設定としても観客のウケは悪いとなっているが、それ以前の問題のような気がする)ということ。
 逆に救いは、さすがに長瀬の方は、落語が理解出来ないところから、最終的にそれを自分なりに演じ切れてしまう巧さが非常によく出ていること。
 また、最初の特番で気になった西田と鶴瓶のアンバランスが、連続ドラマとして非常にうまく消化されている。二人共さすがに巧いと思ってしまう。
 落語ブームに火を付けたのは確かだが、この後、このドラマが終わって、どう持続させるかが問題ですね。


at 16:16|PermalinkComments(0) TV 

2005年06月28日

ハッシャ・バイ  BB

第三舞台

 僕が第三舞台で最も感銘を受けた作品はこの作品だった。少し思い出した。第三舞台で最初に見た作品は「スワンソングが聴こえる場所」で、その後数作を経て、この「ハッシャ・バイ」で最高潮に達し、「天使は瞳を閉じて」でがっかりして退いていったのだった。

 「ハッシャ・バイ」は今、見直しても面白い。何故、僕がこの作品を好きだったのかも分かる。残念ながら、ライブ感の関係もあって、部分的にノレなくなっている部分もあるけれど、基礎になった部分は素晴らしい。
 毎日同じ夢を見る女、現実世界でその夢が写った写真を見つけ、その調査を依頼された探偵。その写真を撮った者はかつて超能力少年といわれ、そして彼は今、精神病院にいた。精神病院を訪れた探偵と女は、そこで精神病院の内と外の狭間を綱渡りする。
 金の無い世界。明日死ぬ運命にある人間が金を望むか。明後日死ぬ人間は・・・? その果てに我々はいる。その果てが確定していないだけなのだ。似たような感覚は常にある。まあ、多分、僕に子供がいないからなのでしょうが、金は使わなくては意味がないという考え方。この考え方は、そんなに金を貯めてどうする? 人間は必要以上の金はいらないんじゃないかと思うわけです。


 ちなみに、撮影技術や画質は「デジャ・ヴ」よりかなり見やすくなっています。その時々の撮影環境が反映しているわけですね。現在の環境がいかによかろうと、当時のものを撮影し直すことは出来ないのだから。「デジャ・ヴ」での不満は無い物ねだりをしたことに気が付いた。



at 11:06|PermalinkComments(0) ETC 

2005年06月27日

ステップフォード・ワイフ(2004年版)  EE

フランク・オズ監督 ニコール・キッドマン/マシュー・ブロデリック/ベット・ミドラー/クリストファー・ウォーケン/フェイス・ヒル/グレン・クローズ

 ぎゃああああぁ。これは最悪。本当にフランク・オズのセンスには泣けてくる。1975年版においてキャサリン・ロスの演じたヒロインはニコール・キッドマンが演ずるのだが、ロス演ずるジョアンナが写真家の卵(この設定はさりげなく好感が持てた)だったのに対し、キッドマンのジョアンナはTVプロデューサーで、男対女という構図の番組が得意、それにより女房に捨てられた男にTV放映中に銃撃され、責任を取らされてクビになった猛女。勿論、これだけでギャグにしていることは分かるが、それは同時にこの作品をコメディにしていることの意思表示なのか(勿論、原作も前回の映画化もスリラーである)。思えば冒頭のクレジットシーンから、往年のミュージカル的構成の中で、作品の雰囲気を明示している。本当に底の浅い手法だ。
 ちなみに、キッドマンの夫はマシュー・ブロデリック(つまらない配役)、キッドマンの援護側がキャシー・ベイツ(その登場の瞬間にうんざりすること請け合い)、敵方にグレン・クローズとクリストファー・ウォーケンだ。(援護側にはゲイ・カップルも配置している)
 勿論、全てを現代に合わせているつもりなのだろうが、そのセンスの悪さに泣けてくる。それにしても75年版ではちょっとうまく処理されていたアクシデントが、こちらではもろにバラしてしまっているのには驚いた。(75年版は救急車が病院と違う方向に走り去っただけだったのに、こちらは火花が見えている!)
 このような最悪の展開の中で、ワン・シーン、真相の説明を加えた上で、映画は75年版のエンディングに至る。ほとんど忠実な模倣だ(勿論、中にゲイは混ざっているが)。これが原作を踏まえた物なのかそれとも75年版映画を踏まえた物なのかは、僕は原作を読んでいないので、断定は出来ないのだが、原作も踏まえていると想像する。しかし構図的には明らかに75年版映画を踏まえている。そして映画は、その後を描く。これがこの映画の目的であるどんでん返しだったのだろう。しかし、それを期待してはならない。単につまらぬハッピーエンドのオチをつけただけであり、勿論、作品の質はどん底に落ちる。

 ここで、一つだけ考慮すべき点に気が付いた。勿論、我々は75年版映画さえ、最近まで見ることは出来なかった。原作を読んだ人はいるだろうが(僕のような怠慢なファンでない限り、レヴィン・ファンは読んでいるだろう)、それほど多くはないだろう。日本では、である。アメリカでは、実は「ステップフォードワイフ」というのは、この作品自体を指す以上に誰でも知っている言葉であるということを日本人は実感していない。しかしアメリカではそうなのだ。この言葉だけで、その状態が分かる言葉。(棘のある良妻?) この映画は、それを踏まえた上での映画なのだが、日本人には分からないだろうなぁ。
 でも、分かっても、この映画の質が上がるわけではない(単に作られた背景が分かるだけな)ので、駄目な映画は駄目なんです。


ゆみだす
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at 13:56|PermalinkComments(0) 映画 

2005年06月25日

二人 奥田美和子  CC

 「雨と夢のあとに」をTVで見て、そこで唱っていたのは杏子でなく、この奥田美和子だった。主題歌を歌っているのだから当然、かもしれないけど、後半しか見ていない僕はついに一度も出演している杏子の下手な演技は見ても、上手い歌は観れなかった(聴けなかった)。
 奥田美和子に文句を言うつもりはない。それがキッカケで(別に彼女が出演していなくても、テーマソングだけで)、彼女を知ることが出来た。シングルで買う気にはならなかったけど、アルバムの発売を待ちわびた。
 そして、このアルバムを聴くと、何と作詞は全て柳美里だった。よほど気に入られているのかな。(「雨と夢のあとに」の他にもう一つ、TV(ヤンキー母校へ帰る/未見)の主題歌「青空の果て」があった)



at 14:56|PermalinkComments(0) 音楽 

2005年06月24日

雨と夢のあとに CC

原作=柳美里/脚本=成井豊、真柴あずき/演出=麻生学 黒川智花,沢村一樹,木村多江, 速水もこみち,浅見れいな,杏子,美保純,ブラザートム

 原作本の方でも書いたように、最初に知ったのは本の宣伝(楽天ブックスのインタビュー)、最初に見たのはこのTVドラマの方。ただし、途中(ちょうど第一章の最終回)からだった。その回がたまたま、かなり原作にリンクしていたということは後で知る。しかしこの回を見て、ちょっと面白そうだと思い、原作小説を読んだら、ヒロインの歳も違うし(原作は小学生、TVは中学生)、環境もかなり違う。しかも、ドラマを見続けると、これはなんか違うぞ、と思ったら、僕が見るまでの回の多くは(多分、設定が整った後は)、毎回、「スカイハイ」まがいの、ヒロインが幽霊達に会う一話完結的ドラマだったらしい。なるほど、と思う。全然違う。ただし、そこまでの回を僕は今のところ見ていない。
 僕が見始めた後、最終章(第二章)は、完結に向けての連続ドラマっぽくなっている。ただし、それでも小さくは毎回エピソードが違っているのだが。

 途中からではあるが、最終回まで見て、やはり色々な意味で駄目だなと思う。まず、原作の持ち味がほとんど消えていて、やはりほとんど「スカイハイ」だ。最終回に至る数回で、どこまで原作の味に近づけるかに期待したのだが、逆にそうすることによって、全体のバランスまで崩れてしまった。
 このドラマの持ち味は、原作でも一つのキーとなっていた暁子さんを、スケールアップして使ったことと思うのだが、(美保純、ブラザー・トムなど他に付け加えられた人物により、ドラマは原作から遊離したものとなったのだが)、彼女のエピソードが最終回の直前に完結し、しかし、最終回において、再び彼女を使わざるを得なかったことによって、全体は陳腐化してしまった。期待の最終回はほとんど意味を無くしてしまっていたのだ。

 それでも、このドラマの収穫は僕にとっては、暁子さん役の木村多江を知ったことと、原作を読んだことかな。
 その他の役者についてですが、杏子(バービーボーイズ)が雨の母親役で出ていたのだけど、駄目でしたね。僕の見た分には彼女が唱うシーンはなかったのだけど、それ以前で彼女のヴォーカルは生かされたのだろうか(一応、歌手の設定だし)。それと、沢田亜矢子がおばあさん役だということに気が付いた時は思わず笑ってしまった。

*追記にはドラマ各回の雑感が書いてあります。(内容書いちゃってます)
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at 11:54|PermalinkComments(0) TV 

2005年06月23日

美は乱調にあり  CC

瀬戸内晴美著

 伊藤野枝の伝記小説。伊藤野枝が辻と別れ、大杉栄の元に走り四角関係に陥り、日蔭茶屋事件、大杉が神近市子に刺される までを描いているが、作者は冒頭で、伊藤野枝に興味があるというより、その回りの雰囲気に興味があったと断っている。だから結末も野枝でなく、大杉と市子の描写で終わっている。ということで、野枝本人も含めてではあるが周囲の人間がかなり克明に描かれている。伊藤野枝に関しては、冒頭で彼女の文才を否定し、本文でもその文章力と情熱のアンバランスさを明確に描写している。つまり彼女が一本立ちして見えるのは背後に辻潤がいたからであり、それが当時としても噂にあり、本人も自覚していたように書かれている。
 それにしても、ここに描かれるものは、文壇の外周にあった女性達と、主義者の恋愛と社会か。著者が最も力を入れて描写しているのは平塚らいてう(明子)だと思うのだが、それさえそのほとんどは恋愛問題であり、らいてうにしろ、野枝にしろ、それを積極的に(主宰雑誌)紙面で公開して社会に晒すのだから、現代から見れば茶番にも感じるェ、思えば彼女たちだけでなく、文壇全体でもこのようなことは数多くあったのだろう。日本人の私小説好き(読む方よりも書く方!)が理解できるというか、理解できないと言うべきか。
 現代でも芸能スキャンダルは当時以上の過激さだろうが、記者でなく、本人達が暴露するのが凄い。いや、現在でも進行形で貴乃花は同じようなことをしているか。

 まあ、ともかくここにあるのは、現実に起こった醜聞の本人達の心の動きの分析であり、僕が入った 辻まこと の世界とは対極にあるように見えながら、実生活では辻まことの生活もこの反復に似たものなのだ。ただし、辻まことはこのような私生活を活字にはしていない。
 尚、この作品では、辻潤は非常に好意的に描写されていたと思う。大杉もまた、少しばかり男の勝手な論理はあるものの、それほど悪くは描かれていない(この男の考え方は、久々に里中満智子の「アリエスの乙女達」の男の勝手さを思い出した。僕は優れた人間だから二人とも愛せる能力があるんだ、などという過信は、しかし漫画の中では見事に覆されるが、大杉は女に養われても平気なのが図太い)。

 もう一つ。周辺として描かれた若い男を女が囲うツバメの由来となるエピソードが書かれているのは面白かった。

辻まことの本

夢幻の山旅

諧調は偽りなり


at 11:26|PermalinkComments(0) 小説