ようこそ hirot'sBlog へ

2004/11/25
本BLOGの公開を
開始しました。
映画は、今世紀に入って
ほとんど劇場では
見ていません。
主にDVD、CS、BS放送
による観賞です。
表題後ろにあるのが評価で、
前は客観点(出来の良さ)、
後は主観点(好き嫌い度)。
A-Eにするつもりですが
客観・主観とも
Cが及第点として、
Aが最高評価
Eが最低評価
とお読みください。
よろしくお願いします。

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hiro


1999年01月

1999年01月27日

夜にかかる虹 / ハルマゲドンの少女

平井和正著

 何となく、突然図書館で、平井和正の本を図書館で何冊かまとめて借りてしまい、平井和正は「幻魔大戦」「真幻魔大戦」「ウルフガイ」共、途中で放棄してしまっているのだけど、でもどこかで気になっていたけれど。

 「夜にかかる虹」上下巻は小説でなく、1990年あたりまでの小説以外の雑文をまとめたもので、その中にはエッセイ、手紙、未発表の雑文まで様々なのだけど、収穫は、初期の事件であった「狼男だよ」の改竄事件の未発表手記が収録されていること。これはやはりちょっとばかり興奮してしまった。でも、「狼のレクイエム」のSFマガジン撤退についてはあまり詳しくない。マンガ版「ウルフガイ」は奇想天外コミックスとして発売されたけど、その後半部分が収録されていないのも初めて知った。もったいない。その理由が、マンガの中であからさまに手塚治虫をパロッた部分を平井和正が訂正を求めたところで作画の坂口尚の気分を害したというだけのことなのだから、なにをかいわんや。もったいない。
 一緒に「ハルマゲドンの少女」全3巻を借りたのだけど、今の僕にはまともに読めなかったのだけど、斜め読みしていったら、その後半でとうとう期待していた「幻魔大戦」で行き着けなかったニューヨーク壊滅シーンにまでこの作品が行き着いており、それが「新幻魔大戦」との(ある意味で)当然のリンクがあり、東丈と東三千子のシンクロにちょっとばかりぶったまげた。
 うーん。「幻魔大戦」も「ウルフガイ」も続きが気になってきたし、「アンドロイドお雪」も読み返してみたくなってしまった。今、読むに耐えるかどうかが問題なのだけど。


at 13:54|PermalinkComments(0) 小説 

1999年01月26日

おもちゃ

深作欣二監督 # 宮本真希/富司純子/南果歩/喜多嶋舞/魏涼子

 導入部がクサいと感じる。川島雄三も時々こういうことをもっと上手くやっていたけど。それから、富司純子がいかにもクサい演技をしていると思い、更に舞妓同士の喧嘩シーンやタクシー会社のストライキ騒動も、どれもこういうところになると深作のヤツ、元気になりやがる、なんて見ていたのだけど。久々に見る南果歩も、やらしい演技しているな、って感じ。
 ただ、確かにクサいけど、ヒロインの少女のひたむきな演技、と云うか、主役らしからぬ控え目な一生懸命さ、華がないのに、「おしん」臭さがないことと、そして、何より、最初はクサかった富司純子がどんどん存在感を出していくあたりで、作品としては非常に安定してくる。南果歩でさえ、自分の役割を全うしてそれ以上に出しゃばらず、確実に地味なヒロインとその裏での富司の存在の裏表が非常に安定して来る。
 この映画のクライマックスは、確実に、富司がヒロインに対して問うた質問に対して「金が何より大事」と答え、それに対して富司が自分の苦労が報いられたと感じるシーンだろう。
 ヒロインが大阪に行くシーンもクサいけど、それはそれでいい。前祝いのシーンの安っぽさもそれはそれでいいのかもしれない。(こちらはもう少し何とかなったんじゃないの、とは思うけど)
 そして、おもちゃが運命の日に玄関を出ていく、そこで終わっていれば、これはそれなりの青春映画(?)で終わったのではないかと錯覚してしまうほど。しかし、勿論映画はそこでは終わらない。いや、しかし終わると錯覚してしまうほど、この前後は区切れている。
 chambreさんが問題にしている部分が、そこからだ。そう、僕もそう思う。なんでこんな描写をしなければならないのか。それと、もしかしたら僕の勘違いかもしれないけど、舞妓になるって、単なる水揚げだけじゃないよね。舞妓としてのデビューという華やかな面があるんじゃなかったっけ。そこの部分を描かないで、水揚げだけを描くところでこの映画が非常にバランス悪く終わっている感じがするのは僕の勘違いなのでしょうか。
 それにしても、富司は、「あ、春」でもさりげなく場をさらう演技をして上手くなったと思ったけど、この作品では更にその存在感を全編に渡って見せつけていた。何度も繰り返すけど、ヒロインと富司の表裏のバランスがこの映画の全てだったと思う。確か「あうん」で富司はカムバックしたのだと思うけど、あの時は無難な配役・演技と思ったけど、この2作の彼女は、少なくとも僕としてはかつて主役を張っていた時の演技よりもずっと円熟した演技をしていると驚いた。ふだんを聞くとカマトトぶっているけど(娘さんに絶対に自分の主役時代のビデオは見せないとか)、どうしてどうしてちゃんと歳を重ねているよ。

 そういえば、この映画の宣伝もあってか、深作がラジオでゲストだった時に、淀川のことを話題にされて、淀川さんは僕の映画が嫌いだっただろうから、わざわざ僕の方から近付かなかったというようなことを云ってましたね。


at 14:02|PermalinkComments(0) 映画 

1999年01月25日

のど自慢

 最初は見る前から見えているような気がして見る気がなかったのだけど、かなり評判が良いので、まあ見えているにしてもそこそこは面白いだろうから、と、見に行ったのだけど。だけど、結果として、最低限の面白さでかなりがっかりした。井筒という監督を僕はあまり見ていないと思うし、またそれほど買っていなかったのだけど、これは相性の問題なのかな。かなり脚本も演出も下手だなあと思う。もう少しノリのいい演出が出来なかったのだろうか。

 群像物というのは悪くないと思うし、それぞれのエピソード自体も別に悪くはない。ただし、描写が浅いというか、雑というか。例えば少女の姉を中心とした家庭問題もあまりにも大ざっぱな上に、母娘の喧嘩シーンも非常に不快だし、だいたい少女のヒロインに対するライバル意識や歌の取り替えなど、描写としては中途半端過ぎるだろう。焼鳥屋の家族は描写はそこそこ丁寧だけど、やはり上手くない。母親の中途半端な存在感、松田美由紀も僕はミスキャストのような気がする。いや、彼女はそれなりに合っていたかもしれないけど、演出的にバランスが裏目に出ている。
 肝心の室井のエピソードにしても、これではひたすら父親役の小林にのみ頼った演出だ。せっかく出演している尾藤ももったいなくもつまらない役柄。最後のエンディングソングには参加しているのだろうけど。それに比べて、「演歌の花道」が尾藤も含む全ての面でいかにバランス良く作られていたことか。
 北村のエピソードも悪いとは云わないけど、もう少し描写の仕方もあっただろうし、竹中は完全な顔見せ出演、これなら本編にはない一発ネタの失格シーン一つの方がずっと存在感があったのでは。レコード屋の息子にしろ、予選における田口にしろ、もう少し使えただろうに。
 完全に、ネタと配役に頼って、監督の手腕が一つとして見れない。いや、せめて凡庸監督でいいから、ネタの邪魔だけはしないで欲しかったな。多分、僕が粗いと感じるところあたりが、この監督の持ち味なのだろうから。(だから、最初に、この監督に僕が合わないからかもしれないと書いている)
 ひたすらがっかり。

at 16:25|PermalinkComments(0) 映画 

1999年01月20日

イーストサイド・ワルツ/快楽の園

 これもWOWOWを録画して見たのだけど、劇場映画でなく、アダルト用オリジナルビデオ。ソフトポルノで売る作品で、だから「快楽の園」とそれっぽい副題がついているけど、実は原作が小林信彦というのでちょっと興味を持ってみてみたら、脚本が荒井晴彦、主演も石橋蓮司という、更に興味を持たせる組み合わせだったけど。まあ、だから傑作になるわけでないのがこの世界で。ちなみに監督の名前は覚えていない。知らない人。きっと若手なんでしょう。
 原作は著者の発の恋愛小説とのことだけど、多分、だから逆に敬遠したのでしょう。未読。映画のストーリーでいけば、山の手育ちの主人公である作家が、下町に興味を持ってそこに行けるということで引き受ける。その後、その依頼者の女性が作家の元の恋人の娘と名乗られ、彼女に下町を案内されたりアルバイトをしてもらったりして、結局二人は恋愛結婚するわけだけど、しかし彼女には何か秘密があるらしい。無言電話に、彼女の秘密の行動、謎の男、等々。やがて、実は彼女は昔の恋人の娘などではなく、たまたま昔の恋人と同じ風俗で働いていて聞いた話を利用しただけ、というところまでは解決するが、しかしまだ何かしっくりこない。
 そして、やがて・・・という展開を、濡れ場を挟みながら描写するわけですが、まあこだわりを感じるのは、作者自身が多分こだわったという下町描写なのでしょうが、しかし勿論、それでこの作品を見るにはあまりにも中途半端だし、まあ、結局、僕が原作小説はこんなものだろうと予測して読まなかった、やっぱりそうだったな、って感じの映画でした。後から原作を読もうとまでは思わない。
 ただ、ヒロインの名前の加奈というのが、おっと、これはきっと作者のお気に入り、文化放送の水谷加奈アナから取ったんだな、とニヤリとしたけど。ちなみに作者の「怪物の目覚める夜」(タイトル不正確)も、「やるまん」と吉田照美をモデルにした放送番組が出てきていた。

at 16:31|PermalinkComments(0) 映画 

1999年01月19日

弥次喜多道中記

マキノ雅弘監督

 1938年作品だから、「鴛鴦歌合戦」の前作あたりの作品。
主演も片岡千恵蔵で、ディック・ミネも顔を見せて歌ってくれている。志村喬は出ているけど、残念ながら唄わない。もう一人の主演が杉狂児なんだけど、彼は「鴛鴦」には出ていたっけ。記憶にないな。
 「鴛鴦」ほどではないけど、その先駆となるミュージカル調時代劇喜劇。しかしその設定もさすがマキノという面白さ。その後、何度かリメイクされているらしいので、知っている人もいるかもしれないが、僕はこれで初めて知ったので、なるほど、と。
 弥次喜多は中学くらいで読んだのかな。お勉強としては実に面白かったので、いくつかのエピソードは今も覚えているけど、その弥次喜多を片岡・杉でストレートに演るのでなく、冒頭、いきなりねずみ小僧の捕り物シーンから始まり、そこにまだ奉行になる前の遠山金四郎が出るのだからあれあれ、という感じ。勿論、ねずみが杉狂児、遠山が片岡千恵蔵。強盗殺人の冤罪をかけられたねずみと、お家騒動でグレたフリして入れ墨を入れて跡目を放棄しようとする金四郎、特に後者の父親とのシーンは結構泣かせる。
 と、いうことで、それぞれの事情で旅に出るが、お互い素性は明かせぬまま、しかし旅は道連れとなってしまった二人がたまたま弥次喜多と会い、笠を取り違えたことから、そんなら自分たちも弥次喜多と名乗ろう、と。つまり弥次喜多二重の旅模様となる。ちゃんと本物の弥次喜多も含めて有名エピソードを入れているのもタイトルに偽りない配慮だし、その上で、クライマックスの再会の約束が、結局、奉行の遠山金四郎とねずみ小僧の対面という避けられない運命というのも泣ける。勿論、最後には金四郎の名裁きとなるわけで。
 さすが遠山金四郎、というより、さすがマキノ!と喝采したくなるような娯楽映画の真髄。
 マキノの奇抜なアイデア作品と云えば「森の石松夢代参」は知っていて、これがリメイクされているのも知っているが、これはそれ以上に面白いアイデアだったと思う。リメイクされても当然でしょう。

at 16:36|PermalinkComments(0) 映画 

1999年01月18日

Mr.マーダー

ディック・ローリー監督 

 前後編200分一気に放送された海外TVドラマ。ディーン・クーンツ原作だけど、この作品も含めて最近のクーンツ作品は全然読んでいなかったけど。これは映像で見れて良かったという感じ。
 政府の極秘プロジェクトでオリンピック候補選手を暗殺、その血液からクローン人間を作り、人間性を抹消した超人的暗殺者を作るはずが、病院のミスから人気ホラー作家の血液が使われてしまう。
 急激に成長したクローンは完璧に近い暗殺者として活躍を始めるが、いつしかオリジナルである作家とテレパシーでつながり、自分がオリジナルと思い込んでしまう。そこで彼の家族を奪い合うオリジナルとクローンの戦いが始まるわけ。
 スティーヴン・ボールドウィンが主人公二人を二役しているがなかなかの好演。弱さと狂気がなかなかうまく出ているし、前半の家族にまで狂ったと誤解されるところから、後半の二人の入れ替わりの展開も、当然の焦れったさはあるものの、しかし思ったよりうまくいっている。多分、小説で読むより楽しめたと思うのだけど。これはクーンツに対する偏見かな。

 思い出すところで「フェイス/オフ」があるのだけど、アクションはともかくとして、結構こちらの方が面白いような気がしてしまった。
 トラヴォルタとケイジの入れ替わりは一度認識すれば簡単には再度の入れ替えはないので混同しないけど、こちらは一度目を離すとすぐに区別がつかなくなってしまう上、お互いに段々と巧妙になっていく。最後のヒッカケも悪くない。
 それにクローンが本当に家族を愛していること、クローンの製作者が彼を非人間的に教育しているにもかかわらず、自分のことを親と呼ばせて、盲愛してしまっているあたりもかなり上手い設定。その製作者は躊躇わずに自分の本当の親を殺すことを命じるのに、自分はクローンの親なのだから自分がクローンに撃たれることはないと思っている。お互いの非人間性の中の人間性。
 久々に、ちょっとクーンツを読んでみたくなった。WOWOWの放送はビデオ版より40分も長いとのことだけど、それだけの価値はあったかも。


at 16:41|PermalinkComments(0) TV 

1999年01月14日

イン・アンド・アウト

フランク・オズ監督

 本当にこの正月映画は観る気になるものが少なくて、「アルマゲドン」の一人勝ちは当然と、他を見もしないで納得してしまっているのですが。
 この「イン・アンド・アウト」はHIDE.Oさんの評と忘年会での評判がかなり良かったので、見ることにしたもの。正直、予告では見る気はしなかった。
 忘年会でも云われていたけど、この映画、見方を間違えると悲惨なことになる。つまり、この映画は冗談映画であるということ。それは分かっていたつもりなんだけど。だけどねぇ。
 監督がフランク・オズなんだ。フランク・オズだなぁ、という気がする。フランク・オズね。

 この映画が作られるきっかけとなったトム・ハンクスのアカデミー賞での発言は知らなかったけど(これも忘年会で聞いていた上でのパンフの立ち読み)、まあグレン・クローズも、バーブラストライザンド・ネタも面白いけど。でもねぇ。
 トム・セレックがなかなか好演していたけど、なんかバート・レイノルズを思い出してしまった。
 デビー・レイノルズが、とっても可愛いおかあさん(というよりおばあさんという感じだけど)で良かった。
 校長先生役の役者さんを見て、ふとジョン・リスゴウを思い出したけど、最近、見かけないけどどうしたんだろう。
 最近のマット・ディロンは昔よりずっと演技は良くなっているけど、しかしマット・ディロンというイメージが希薄になってきているのがちょっと気になる。
 それに比べてジョーン・キューサックは久々に、あくまでジョーン・キューサックという役柄。でもなんか悲しい。そう、いくらコメディでも、彼女の状況は僕には笑い飛ばせない。
 ケヴィン・クラインもいつもながら上手いけど。でも、最近の彼は何か物足りない。昔持っていた一種の狂気のようなものが無くなっている。
 で、やっぱり、フランク・オズだなぁ、と。(フランク・オズって、確か一作だけ、ちょっと悪くないコメディがあったと思うのだけど・・・リチャード・ドレイファス主演で。思い違いかもしれないけど)
 卒業式がアカデミー賞と重なりかけるところの演出の下手さ。

 以下、別にかまわないかもしれないけど、内容に触れます。未見で、見る気のある人は読まない方がいいかも。

 結局、この作品の敗因は、僕としては、ホモと見なされたノーマルな人の喜劇の筈が、ホモを隠していたホモの話だったことによるものと思う。それによって、喜劇が喜劇として機能しなくなってしまったような気がするのは僕だけでしょうか。この題材自体、状況がホモと間違えられたところで喜劇的であるべきものが、本物のホモが暴かれたというところで、悪趣味に変質してしまったように思えるのだけど。
 卒業式シーンなんか見れば、実際、この映画が単に笑いを狙うだけでなく、本当に狙っているのは感動だよ、というのが見えてしまう。いや、ここのシーンも、パロディにも見れるけど、でも、内容的にマジでしょ。だからパロディにみせかけて実はマジ、というのが、演出手腕としても内容としてもどちらも僕は上手くないと感じてしまった。

 まあ、忠告にもかかわらず、単なるコメディとして見れなかったことが原因でこれだけ批判的になってしまったのだけど、でも、ジョーン・キューサックの救済をマット・ディロンに持ってくることだけ見ても、どうしようもないと思ってしまうのだけど。


at 16:48|PermalinkComments(0) 映画